昭和五十一年十月十八日 月次祭の御教話


 御盛大な教祖大祭を頂きました。その後、昨日今日、大祭後の、一つのざわめきとでも申しましょうか、ざわめきを感じます。それは、悪い意味でなくて、まぁ言うならば、おかげのざわめきとでも申しましょうかね。私は、私の性分ですから、ああいう大祭が終わりましても、もう夜の御祈念に参ってきたときには、「今日は大祭があったつじゃろうか」という風になからなければいけないと、私は思うておりますから、もう全部、お三方から八足から、あの六十俵からでしたね今年は、あのお米が全部、裏に片付けられるだけではなくて、全部がお米のカンカンの中に納められて、ここには御大祭の雰囲気というものが少しも残ってないです、夜に参って参りますと。勿論だから、明くる日などは「ありゃ、昨日は御大祭があったつですか」というようなことですから、そういう大祭の後の、まぁざわめきと言うのではなくて、大祭を頂いてからおかげのざわめきと言う訳です。
 もう本当に、私がお取次ぎさせて頂いて、大祭というのは、何時の場合でもそうですけれども、有難いことだなあ、御大祭を境にいろいろ、おかげが、もう本当言うたらお参りした全部にそれが現れておるのでしょうけども、気がつかないだけでありましょうね。 今日一日のことを申しましてもね、今朝、朝の奉仕をさせて頂いておるときに、宮崎から、田中加代子先生のお母さんから電話が掛かって参りまして、「実は今度の御大祭に初めてお引き寄せ頂きましたご夫婦の〇〇さんという方が、ただ今、ここにお礼に出てきておられます。それで、ここまででもお礼に出てこなければおられないからというて見えたんですけども、ご本人から、直接お届けをさせますから」ということでした。本当にあの、受話器を取られましたけれども、一時話が、言葉が出ませんもん。感動しておられる訳です。「はいはい、私が合楽の大坪です」と、言ったのを取り次いだ途端に感動しておられる。
 実は今朝から、トラックが家に飛び込んだ。主人はちょうど朝起きて必ず下に新聞を取りに行くんです。ところがその、新聞受けのところがガバッとやられた。それから、下に降りたのと、飛び込んだのが一緒で、本な間一髪、取りよったとこだったらもう命はしまえ取るとこじゃった。膝坊主をちょっと、かすり傷をしたぐらいだったそうですけども、もうその大変大きな音がしたそうですけども、その時に主人が「金光様!」というて、初めて参って来とってですね、言うたそうです。それを二階から聞いておられた奥さんが大変喜ばれて、しかもその運転手に、例えば、「何しよったのか、居眠り運転でもしよったのだろう」と言わずにね、「本当に私ん方もふが悪いけれども、あんたもふが悪かった。まぁあんた怪我なかったらよかった」という風に言ってるのを聞いて、途端に有り難うならせて頂いた。主人が申しますのに、その瞬間の出来事ですけども、「金光様!」とあの大きな音がした途端に申し上げたときに、自分の前に、それこそ偉大な親先生が、ご大祭のときにお説教されたときの姿をそのままで、その大きく頂いたという。もう夫婦のものが感動してから、それで田中先生のところまでお礼にきておるというのでした。近いうちにお礼参拝させて頂きたい。取り合えず、お礼を申し上げるということでございました。
 それを前後いたしましてから、福岡の松岡さんが、それこそ夫婦がここで泣き伏さんばかりして、お礼に出て参りました。お大祭を終わって、有り難うして有り難うして、もうみんな店中のもの、家中のものを集めて何十年間のうちにおかげを受けてきた、それこそ奇跡的なおかげを頂いた話をずう-っとして、終わったところに電話が掛かってきた。それが娘から電話が掛かってきて、受話器を取らせて頂いたら瞬間に「お母さん!勝手のほうで今打ち上げ取るから」と言うて、ガチャっと電話が切れた。それで、悦子さんち言いますから、「悦子さん悦子さん!」ち言うてから電話で、どんどんおらぶけれども、もう切れ取るけん聞こえる筈ありませんよね。松岡さんがさすがに、「お前、切れた電話に悦子悦子おらんでどうするか。はよ、息子」。息子は腰を、あの、何とか腰で、それに風邪まで引いて、二階で休んでおるのを起こしたらもう、いっぺんに腰がしゃんとしてからですね、そしてから妹のところに行った。私は二階に上がって御神前にご祈念をするというようなことで御座いました。それがその、油を二つ掛けとって、一つだけ消して、電話をかけて、かけた途端に一つのつが、油の中に火が入った。それからもう、どんどんどんどん燃え上がってから、その、横の壁のところまで焦がした。大家さんのところに行くけれども鍵が詰っとる。隣近所はど-こも、生憎おんなさらん。もうどうにも仕方がないからと、言うておるところに、この時間にかえってくるはずのない主人が帰ってきた。そして、今大きなお腹しとりますから、やっぱ主人がね、お前もうあっち行っとけと言うて、その消火器で全部消し止めておかげを頂いた。もう、それを見に行きましたが、これが本に、天井につかずに燃え上がらじゃった、その瞬間に主人が帰ってきたということは、何というおかげじゃろうかと言うて、それこそ泣き伏してのお礼でした。
 先ほども、ここで久留米の稲垣さんがお届けをされましたが、丁度御大祭の日にお参りをしてきた、稲垣さんのお導きで福岡から参ってくるご婦人があります。それこそ、どうにもこうにもできない問題、人間関係です。それで親先生にお願いしようと思うてお参りして来たところが、たまたまの御大祭を頂いて、だんだんお祭りを頂いておるうちに、もう自分の心の中にあったものがすっきり一掃されたような気がして、それで、稲垣さんと二人でそのことのお礼お届けだけが御座いましたが、その方から、今日また電話が掛かって参りましてね、稲垣さんに。この方はお神様はお祀りしてないけれども大黒様だけをお祀りしてある。それこそ、合楽の生神金光大神様で拝む訳です。ところが今日はね、座らせて頂いたら、あれは楠か何か知らんけれでも、楠の匂いが、樟脳の匂いがぷんぷんするそうです。今までかってなかったことじゃが、こりゃ何か神様お知らせ下さるとじゃなかろうかと思うて、横におかげの泉がこうやって、上のほうに上げてちゃっとしてあるそうです。それで、何時の場合でもおかげの泉を開かせて頂いたら、楠太りの信心という御理解のとこじゃったげな。何時ものことながら、それこそ、本当に感動してしまいました。だんだん読ませて頂いたら大きゅうなれ、大きゅうなれ、楠太りの信心をせよという、その御理解が出ておる。それこそ、最近合楽で頂いておるところの、寛大。本当に寛大な心にならせて頂かなければ、もうどうにもでけない、所謂状態の中を通って、これは人間関係ですけどね。まぁ、苦しいところを通っておられるけれども、それを頂くたんべんに心がすっきりする。
 先日も御神前で御祈念をなさっておられたところが、花札の赤丹とか、青丹と言う萩の絵がついたのがありますね。それを御心眼に頂かれた。兎に角、日参り夜参りせんでん、本な自分の用のあるときだけですけども一心に拝まれるということは、もう、二月から参っておられますが、一日も大祓いを欠かしたことがない。そして最近は、御祈念をさして貰いよったら目の前が真っ暗になって、いろんな蛙が飛び出してきたりね、その時は赤丹を、花札を頂いた。どういうことだろうかと思うて、聞くともなしにテレビを入れたところが、丁度、大橋巨泉と言うですか、あの人が花言葉の説明をしておるところであった。そして萩の花はどういうようなことか知っておりますか、と言うようなことから、萩の花とは人を恨むという花言葉だそうですね。途端に、その人間関係のことですから、あん奴が、あん畜生が、本当にもう、指し殺そうごとある、ぐらいもやもやするようなこと何です、話を聞けば。けれども、はぁこれは、神様が恨んではおかげにならんというので、ね、もう本当に、おかげ、、、。今ね、自分の心が神様から頂くと一遍にそこが無くなるんです。ところがそれから数日後に、これは三角関係の方ですけれども、相手の女の人が、主人と二人住もうておられるところに、自分のもの道具は全部もって、行方不明になって出ていかれた。ところが今度は主人が、奥さんに頭を下げてね、あの女子と別れたらもう生き甲斐がないち、それで、お前がどっか捜し出してきてくれち言うてから、向こうに行って泊まってなさるとです、だぁれも帰ってこんところに。そういう風な、まぁ変わってきた訳です。ところが、今までならなんだけれども、本当に主人が男泣きに泣くのを見ておって、気の毒で可哀想でたまらんから、どうでも、その女の人を捜し出して、元の鞘に納めてやらんならんというような心が今、寛大な心です。楠太りの信心です。恨むどころか反対のことになってきたというのです。
 今日午後の奉仕のときに日田の高野さんがご夫婦で参ってきた。熱心に参って見えます。先日から御本部参拝の行き戻りの車を大分支部でも御用して頂きたいから、あんたんとこの車も出してくれと、支部長さんから通知がありました。ところが丁度時間が野菜や、食料品屋をなさっておられますから、丁度忙しい時間になるから出来んというて断わることは断わったものの心に掛かって、引っ掛かって引っ掛かって仕様がなかった。それで、晩休ませて頂くときに神様にお願いをして、どうぞこの気持ちがすっきりしますように、と言うてお詫びをさせて頂いて、休ませて頂いたら、お夢にね、一生懸命に自分がミシンを踏んでいるところを頂いた。そしたところが糸がミシンに巻きついてね、踏めども踏めども糸が進まんところを頂いた。途端に自分が感じたことは、私流ですけれども、神様にはさぁお願いがあると言やぁ、やあやあ言うてお願いをさせて頂きながら、神様の御用を言うて、いうなら支部長さんから電話が掛かって来とるとに、ちょいとその時間は忙がし御座いますけん、なんてん言うた事が相済まん事だった。いかに忙しいと言うて踏んでおってもです、この糸がギリギリ巻かっとったら、一枚の着物、シャツでも縫い上げることは出来ないお知らせであると悟って、御用させて頂きましたという訳なんです。有難いですね、神様が物言わんばかりに教えて下さる。
 そこで、私共がおかげを頂かせてもろうて、自分というものが中心ではなくて、神様が中心という信心を日頃させて頂いておるならば、どういう忙しい中にあっても、支部長さんから電話が掛かってきた、自動車を出してくれ、はぁどうぞと言うて、店閉めてからでもやらせて頂けるおかげを受けられる。そこには氏子が神の用を足せば、氏子の用は神が足してやるというようなシャ-プなおかげになってくる訳です。言うならば、神徳の世界がそこから開けてくるんです。ね、神様中心。
 先ほど、前講で、ここの光昭がお話をしておりましたが。
 私は、昨日の朝、今、金光から豊美達夫婦が御大祭におかげを頂いております。昨日の朝、朝の御祈念の後でお届けを致しますのに、一年後に仕えられますところの、ここの十年記念祭には私も典楽の御用を頂きたいと思う。ついては、合楽の典楽会は盛んでもあるし、すべての楽器も揃うて見事にでけておるけれども、まぁ本式という訳にはいけない。この頃から、まぁ好奇心で言いなさるのだろうかと思うておったが、本部の、一番、ご夫婦でどういう楽器でも教導の出来られるという有名な先生がおられるそうですが、是非合楽に夫婦で典楽の指導に行きたいと、向こうから言われる。これは好奇心であんなに言われるんだろうと思うて、お答えもしなかったけれども、お祭りを頂いておって、いよいよ考えさせて頂いて、いよいよ一年後のことを思うたらです、これは、とても願うても叶うことではない話が、向こうから起きておるのだから、これは受けさせて頂いて、合楽典楽会が一新しなければならないと、気付かせて頂いたと言うて、お届けをさせて頂いた。もう、私はこのお届けが一番有難かったです。何故かというとね、先ほど、典楽会の会の人たちが皆、一年後の、舞の、今日は舞の先生も見えておる。舞のことから、一年後の典楽のことについてのお届けが御座いましたが、典楽というのは一つのリズムなんだ。神様もあのリズムに乗って舞われるならば、人間、私ども信者氏子もリズムに乗って信心を進めていくということになる。
 合楽でこの典楽がいろいろに足ろうて行くにしたがって、合楽の信心が大きくなって来ておる。まる少のバンドなんかができた時でもそうでした。琴が六面から十二面になった時なんかは、本当に飛躍的な合楽はおかげを頂いてきた。いうならば、天地のリズムに乗っての生き方がお道の信心の進め方であり、またはおかげを頂く、お徳を受けて行く道というのは、天地のリズムに乗った信心生活だということでございます。
 今日、三時の、これは言葉をちょっと換えておりますけどね、本部でいうところの新運動に対する宣言文であります。「天地自然の道理に基づいての生活、生き方 自然の生命を重んじ 自然と人間の調和する世界を、社会をか、を求める」という、これは調和する世界を現すということだと、私の考え方をちょっと入れておる訳ですけれども、これが、まぁ言うならば、本部が今進めておられる新運動の宣言文であります。素晴らしいことだと。
 そこで私が今日、研修をさせて頂くときに、みんなに問いました。大体、天地自然の道理に基づいての生き方というのを本部ではどんな具合に説いておるのか。皆はどういう風に教えて頂いたのか、学院に行ってから。また、自然の生命を重んじると言うことはどういうことなのか。それを説明もせず、こういうことだとも言わずに、ただ宣言だと立派な言葉を並べたところで仕方のないんだが。と言うて、一人一人に訪ねてみたんです。ところが、実に曖昧なんです。言うならば、公害問題を、言うなら無くしていくと行った程度にしか受け止めていないということなんです。もちろん天地自然の道理に基づくということは教祖の生きられ方でしょう、ね。だから、それは、いつも教えられておる、教祖様の生きられ方。または教祖のみ教えを、言うなら元にしての信心生活。本当に難しいことなんだ。自然の生命を重んじるということ。これが今、説明の仕様がないのが、今の本部の状態じゃなかろうか。これは、自然の生命。言うならば、成り行きを大切にする。と言うこと。神様の御働きそのものを大事にするということ。だから起きてくるすべてのことに御の字をつけてという、御の字をつけての頂き方。そういう頂き方が実際の上において、日常生活の上にできておらなければ、重んじるということになっていない。神様の御働きを尊ぶとか、有難く合掌して受けるとかという、それで初めて神様を大事にしたということになる。お祀りをした神様を拝み上げたり、お祭りしたりと言うことではない。その神様の働きそのものが生命である、神様の。その神様のお心であり、その生命を重んじるということ。言うならば、合楽で言われておる成り行きを尊ばせて頂くという生き方がです、言うなら二十何年間、ここで説きに説かれてきて、だんだんおかげを頂いてきて、最近では「頂きます 頂きましょう」といったような合い言葉までが生まれて、すべてのことを頂きにくうしておることでも、「頂きましょう」というたら、頂けれる。はぁそうだったと、すぐ気がつくのだ。
 今日の、ちょうど研修のとき、熊谷さんが、今日月次祭の果物を度々お供えされますから、一杯果物を下げてご参拝になりました。今日はどういうものか知らんけれども、足が、いつもの果物屋と反対の方へ向いていくという訳。「はぁ、あちらのほうにも果物屋があるけん、あっちで買えということじゃろうか」と、思うてそこに買いにやらせて頂いた。そして、あれこれ注文させて頂いたら、丁度すぐ後から、また一人のお客さんが果物を買いに見えた。ところが、それこそ熊谷さんのそれを無視するかのようにして、後から来たお客さんに、しかもそれがえらい暇がいる、その選びよんなさるとが。そんなことがありますよね。買いにいっとると、「ちょいと私のほうを急いで下さい」。急ぎよらんでんそう言おうごたるですもんね。「私も急ぎよりますけん、私が方先して下さい」。こっちが先行っとるとじゃから。そう言わんでん、心がしますよね。さすがに熊谷さん。ここが寛の字で頂くとこだなと思うた。言うならば、果物屋さんも悪気があって、また熊谷さんを軽う見られた訳でもないでしょう。いつものお得意さんですから。けれども、こちらが、待っておるほうが静かに、豊かな心で待っておる訳。けれども、こんなにしよるなら今度のバスには丁度乗り遅れる。同時にまた、研修も頂きたいのにと、思うておったところへ、漸く自分のほうへこられた。そして参らせて頂いたら、バスのほうが遅れてから、ちゃんと待っとった。先生おかげを頂いて研修にも間に合わせて頂いたという、これは日常茶飯事の中にある問題、些細なことですけれども、これを大きくしていくこと何ですよ、今、寛の字で受けていこうという生き方は。
 昨日、私共、佐田さんから午後からの芝居の招待を受けました。素晴らしいお芝居でした。勘三郎、勘九郎、それから新宗十郎に新藤十郎が来ておりました。もう最近にない素晴らしい見物でした。それを、もう本当に舞台がそこで、勘三郎が演技をしとるのが、丁度このくらいのところです。友足さんが居るくらいのところからこうやって私共が、と言うようなところの席を頂いた。それも、佐田さん達が頂かれた招待券というのが、もう真正面の七枚目、を頂いた。あんまり良か場所じゃから、親先生に行って頂こうかと言うて電話が掛かってきた。私も丁度、豊美達がきておりましたから、お昼の、ま、久留米で食事なっとんさして頂こうと思うて居るところに電話が掛かってきた。だから、直ぐ、なら行きます。と言うて電話をしました。佐田さんも、もう万事万端に行き届いた奉仕を受けて参りましたがです。どっこい私共が中に入ってみたところが、私共がかけておるところにもう人が掛けてある。それで豊美が、そこは私達の番号ですからち言うたら、もうこうしてから動きなさらんげな。もうそれけん良かてい。そしたら、係員の方がきましたけれども、係員の方が言うても動かっしゃらん。そんならば、こちらの方へお掛け下さい、と言うて、そこよりもっと良い、一列向こうのほうでありましたけれども、そこに二つ開とったから、掛けさせていただいとりましたら、佐田さんが、指定のところに私達が座わっとらんもんですから、直ぐ係員の方に言われた。ところが、一番正面になら二つ席が開取りますから、そこをつこうて下さいと言われた。もう、私が目も薄いし、耳も遠いしね、七枚目ぐらいであっても、やっぱり時々こうやって双眼鏡を使わんと細見えがせん訳です。それにもう、一番真正面のここで、見せて頂いて、本当に堪能させて頂いた訳何です。 言うなら、そげなこつがあるもんのと言うて、はねのけたっちゃ言い訳ですよね、こちらの番号のところに座わっちゃるっちゃけん。それこそ、でなかったら喧嘩にでもなりかねないところですよ、普通でなら。それこそ、最近寛の字で行こうというときですから、そしたら係員の方が来て、より良いところに移して下さった。佐田さんのおかげでもっとより良いところで、それこそおかげを頂いた。
 本当にこれが芝居見だけじゃないです。果物買いだけのことじゃないです。一事が万事にね、そういう生き方を身につけていこうというのです。
 今朝から高橋さんが、今度夫婦でご本部にもおかげを頂かれた。もう御大祭も拝ませて頂いて、お説教中、ずう-っと奥さんの方が頂かれる。頂かれるのがね、寛大の寛の字になれというお知らせばかりであった。それで、昨日お父さん、いかれたら、どうでもこの信心を自分のものにしたいから、色紙を買ってきたからこれに寛の字を一字、親先生に書いてもらってくれという訳。それで、今朝持ってみえましたから、私、まぁ下手な字ですけれども、寛の字を書かせて頂いて、裏に、「広ければ広く、狭ければ狭く、水の流れに不平もあらず」と書いて差し上げました。これは、寛と言う字の答なんです。寛と言う字だけでは分からん。その意味というのは、広ければ広く、狭ければ狭く、水の流れに不平もあらず。と言う、まぁ説明を書いて差し上げたわけですけれども、いよいよ、合楽の場合は、何十年間成り行きを尊ぶとか、大切にするという、また御の字を頂いてとか、本当に最近では、もう「頂きましょう 頂きます」という生き方をいよいよ身につけて、所謂この寛の字が、いよいよ持って最後の仕上げに入らなければならないところだと、私は皆さんに、今朝から聞いていただいとります。 例えば果物買いだけじゃない。お芝居見物だけじゃない。一事が万事にそういう生き方をするところに、もう既に、そこには問題は消えておるです。そういう心の状態にです、言うならば、私が願ってもないところへ、前のほうへ、前のほうへとやらせて頂けるようなお繰り合わせにもなってくる訳です。
 先程の福岡の方じゃないですけれども、大黒様から楠の匂いがぷんぷんする。今までかってない匂いがするので、どういうことであろうかと思うて、おかげの泉を開かせて頂いたら「楠太りの信心をせよ」とあった。所謂、寛大な寛の字で行けということであった。もう神様に頂くのですから一遍にこれが、パ-ッと大きくなったような気がする訳です。そういう信心をです、いよいよ身につけていく。
 今日、私共が研修させて頂いた。特に、自然の生命を重んじるということは、とても、今の教団で、これは、合楽風に、今説いておるような説き方をする人は一人もする人はありません。だから、どうでも合楽で、所謂自然の生命を重んじ、自然に起きてくるその問題を、神の働きと見て、それを合掌して受けていくという生き方に、神様もまた私どもを重んじて下さる働きになってくる訳であります。 そういう信心をいよいよ進めさせて頂きながら、十年祭へ向かって行こうというのが、先程から天楽会の方たちのお届けで御座いましたが、まずリズムがでけて来た。そのリズムに乗って、私共が信心を進めていく。神様もそのリズムに覚えんごとなってついてきて下さる。そういうおかげを頂きたいと思います。どうぞ。